スーパーGTを戦うJAF-GT見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。
今回は2006年のスーパーGT第3戦として富士スピードウェイで開催された『FUJI GT 500km RACE』。この年、コリンズは初来日&スーパーGT初観戦を果たし、GTの魅力にとりつかれたようです。
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スーパーGTについて、2006年の私は漠然とした認識、知識しかなかった。大学生のころにプレイステーションで古いJGTC全日本GT選手権のマシンを走らせたこともあったし、雑誌で読んだニュースから、JGTCの名前がスーパーGTに変わったことは知っていたが、当時のスーパーGTに関する知識はその程度のものだった。
私が初めて日本を訪れた主な目的は、執筆していた書籍用に旧型F1マシンである童夢F105の写真を撮影すること、コンストラクターである童夢の林みのる代表にインタビューをすることだった。
しかし、日本滞在中、いくつかチームのファクトリーを訪問し、日本のレースを観戦してみようとも考えていた。
成田空港に到着した私は、成田エクスプレスを使って池袋まで移動した。宿泊するホテルは駅に隣接していたので道に迷うことなくみつけることができた。
迎えた最初の夜は外に繰り出す勇気がなく、1日中ホテルの部屋に閉じこもっていた。初めて日本に来たということもあり、ヨーロッパで知り合った童夢の人たち以外、この国に知り合いはいなかったのだ。
そこで私は東京のイギリス大使館に連絡し、日本のモータースポーツ産業についてレクチャーしてもらえないかと頼み込んだ。
モータースポーツはイギリス経済にとって、数十億規模の輸出品であり、イギリス大使館ならばモータースポーツに関連する日本企業などを紹介してくれるだろうと考え、納税者という立場を最大限活用することにしたのだった。
そしてある晴れた日、私はパスポートを持って早朝にイギリス大使館の門をくぐった。すると、私は大使館職員が運転する外交官ナンバーがついたクルマに乗せられて、富士スピードウェイに向かうことになった。
私を案内してくれた大使館職員は富士スピードウェイでレースがあり、今日は予選セッションを見られるはずだと教えてくれたが、私は混乱した。その日は水曜日だったのだ。
その大使館職員は今はゴールデンウイークであり、レースは週の真ん中に行われるのだと説明してくれた。当時の私はゴールデンウイークなど聞いたこともなかったので、それがなんなのか説明してもらわなければならず、恥ずかしい思いをしたのを覚えている。
そう、私の日本に関する知識は不十分だったのだ。そのとき、日本についてもっと書物を読み、学ぼうと決めた。
富士スピードウェイへの道中、酷い渋滞に巻き込まれ、大使館職員とのドライブは長時間になっていたので、さっそくこの時間を活用して日本に関する知識を深めることができた。大使館職員は私が今いる国がどれだけ素晴らしいか、レクチャーしてくれたのだ。
大使館職員から日本に関する話を聞いていると目的に到着した。何年も前から訪れてみたいと願っていた富士スピードウェイにたどり着いたのだ。もちろん、私は1976年に富士で行われたF1日本GPで起きたこと、そして30度バンクの存在も知っていた。
私たちはコースのどこにでも立ち入ることができるパスを与えられたが、最初に案内されたのはあるチームのピットガレージで、そこで初めてスーパーGTのマシンを見た。それはGT300クラスに参戦していたWILLCOM ADVAN VEMAC408Rだった。
■初めて目にしたスーパーGTマシンたち
ピットで私を温かく出迎えてくれた東京アールアンドデーの小野昌朗さんと、彼のこれまでのキャリアやビーマックRD408Rのデザイン、そしてスーパーGTというシリーズについて話をした。
そのあとピットレーンに沿って歩き、多くのマシンを目にすることになった。初めて目にしたGT500マシンには感動したが、特にホンダNSX R-GTは強烈だった。ルーフ上に吸気口があることで、NSX R-GTはF1マシンとLMPマシンの中間にあるマシンに思えた。
ホンダ以外の陣営はレクサスSC430とニッサン・フェアレディZをベースにしたマシンで戦っていたし、トヨタ・スープラも数台(ECLIPSE ADVANスープラとtriple a サード スープラGT)もあった。
これを見て、私はGT500マシンに夢中になった。エンジニアリングは美しく、デザインはさまざま。まるで学生時代に遊んだプレイステーションの世界に飛び込んだような気分だった。
プラクティス(練習走行)前にピット内でマシンを間近に見ると、コクピット内が整然としていること、リヤビューカメラをはじめとする多くの素晴らしい機能が備わっていることも知ることができた。
そしてGT300マシンにも驚かされた。参戦している車種がバラエティに富んでいたのだ。ポルシェやランボルギーニなど、なじみ深いマシンもあったが、残りはまったく見たこともないマシンばかりだった。
当時はGT300にもホンダNSXが参戦していたので、GT500マシンと比較するのは面白そうだと思ったが、数多くあるGT300マシンのなかで私はある2台のマシンに目を奪われた。
1台はDHG Racingが走らせていたDHG ADVAN FORD GTだ。当時、世界のモータースポーツを見渡しても、フォードGTが本格的にレースを戦ったことはほとんどなかった。だからこそ、この車両はワイルドに見えた。
外観こそ市販のフォードGTと同じように見えたが、内部は完全にリビルトされており、エンジンは無限がF3000やフォーミュラ・ニッポン(現在のスーパーフォーミュラ)用に製作していた無限MF308がベースの3.5リッター仕様『DHG D35806V』を搭載していた。これは当時のGT300に関するレギュレーションがどれだけ柔軟だったかをあらわすものだ。
私の注意をひいたもう1台は、ベルノ東海ドリーム28が走らせていたPrivée Zurich・アップル・紫電だ。このマシンはデイトナ・プロトの外観をはるかに良くしたものに見え、マシンを近くで観察するとより一層、その素晴らしさを感じることができた。
マシンを企画開発したムーンクラフトは、ライリー・テクノロジーズ社のデイトナ・プロト『ライリーMk.XI』をベースに紫電を開発していた。当時のデイトナ24時間を戦っていたライリーMk.XIはお世辞にも美しいとは言い難い外観のマシンだったが、このムーンクラフト紫電は心を奪われるほどの美しさを持っていた。
その外観に惚れた私は、紫電の写真を何枚も撮影し、イギリスに帰ってから多くの人たちに写真を見せながら「デイトナ・プロトは美しくてもいい」ことが証明されたとアピールしたほどだ。
ただ、なぜ紫電がGT300クラスへの参加を許されていたのか、当時の私は少し疑問を覚えた。ほかのGT300マシンは少なくとも部分的に市販車ベースだったのに対し、この紫電は市販車ベースではなかったのだから当然だろう。
結局、当時の私にはその理由は分からずじまいだったが、紫電のGT300参戦が許されていることをうれしく思った。紫電の存在が認められていたことで、GT300というクラスは私がそれまで目にしてきたすべてのカテゴリーとまったく違う存在になっていのだ。
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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。
from 2006年に初めて訪れたスーパーGTと富士で心奪われたフォードGTと紫電【日本のレース通サム・コリンズの忘れられない1戦】
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