11月23〜24日、富士スピードウェイでスーパーGT GT500クラスの15台のマシンと、DTMドイツ・ツーリングカー選手権に参戦するアウディRS5 DTM、BMW M4 DTMという7台のマシンが参加し、『AUTOBACS 45th Anniversary presents SUPER GT x DTM 特別交流戦』が開催される。このレースを前に、いったいなぜGT500とDTMは規定を同じくしたのかをライトなファン向けに、簡単にまとめて3回に分けてお届けしよう。まず1回目は、両シリーズの歴史を簡単に振り返ろう。
■紆余曲折を経たGT500の歴史
1994年に誕生したJGTC全日本GT選手権が、スーパーGTの前身。もともと最上位クラスの名称は『GT1』というもので、1996年から『GT500』に改められた。1993年にもシリーズとしては開催されているが、現在に繋がるGTアソシエイションが運営したシリーズではない。
当時、1980年代から隆盛を誇ったプロトタイプカーのグループCレースは世界的に終焉を迎え、新しいスポーツカーレースが生み出されようとしていた。ヨーロッパであればGT1/GT2を使ったBPR GTが生まれ、北米IMSAではグループC同等のGTPに代わって、二座席オープンプロトのWSCが誕生。一方下位クラスだったGTS/GTUもにわかに脚光を浴びた。
時代としてはGTカーのレースに移行しつつあるときで、さらに日本では、ツーリングカーレースの規定がグループAから、BTCCなどを中心に盛り上がりをみせた4ドアセダンの『クラス2』規定に移行。グループAで最強を誇ったニッサン・スカイラインGT-R(R32)の新たな活躍の場が求められていた。
そこで、93年に生み出されたのがスカイラインGT-Rの『GTカー』。93年はカルソニック・スカイラインとしてJSSとの混走だったJGTC、さらに鈴鹿1000kmではBPR GTやIMSAの海外勢とも戦い、影山正彦を“初代”チャンピオンに導いたマシンだが、これが初のGT1=GT500マシンだったと言っていいだろう。
94年のGT500は、この進化版と言えるGT-R、さらに当初は独自マシンだったフェラーリF40や、チーム国光が持ち込んだポルシェ911 RSRターボ、さらにグループC車両だったポルシェ962など多種多様なマシンが参加。シーズン途中からは、TRDのチューニングカー用エアロをまとい、グループC流用のパーツで武装したトヨタ・スープラが誕生。1996年のマクラーレンF1 GTR襲来までは、比較的牧歌的な雰囲気でシリーズは進んでいた。
当時のGT1=GT500の車両の考え方は、グループAの状態から規定の車幅までオーバーフェンダーで拡幅させ、巨大なフロントスプリッターやリヤウイングでダウンフォースを得るというもの。エンジン搭載位置はノーマルだった。
しかし、96年に当時のスーパースポーツだったマクラーレンF1 GTRには苦戦を強いられ、さらに1997年途中から、無限×童夢プロジェクトのホンダNSX-GTが参戦すると、車体下面を活用した大きなダウンフォースで、スピードではGT-R、スープラは太刀打ちができなくなっていった。ただ、当時のNSXはトラブル等もあり、シリーズの混戦はまだ続いた。
ここからJGTCは、3メーカーの間での開発競争が進む。市販のフレームはそのままに、徐々に改造範囲が広げられるよう規定は次第に自由化し、性能を合わせようという流れになっていった。
このなかで特徴的な一台だったのがGT-R。ベース車はR32からR33、そしてR34へと進化したが、やはり大きく重いRB26DETTエンジン、そして重量バランス、市販車のフレーム等の障壁が多かった。次第に苦戦を強いられており、2002年には未勝利に終わったが、2003年からの新規定で前後フレームを独自設計できることになったほか、ギヤボックス搭載位置が自由になるとこれをトランスアクスル化。前年から使われていたVQ30エンジンのコンパクトさもあいまって高い戦闘力を誇ると、R34 GT-Rの最終年にチャンピオンを獲得した。
この間も、NSXのミッドシップや車高の低さの優位性、オプション設定によるベース車両の空力改善、さらにエンジンのターボ化やNA化、規定を読んだ大排気量エンジン投入など、各メーカーが“武器”を投じた。
しかしここまでの歴史では、やはりどこかしらで性能を調整する必要があったり、「○○はズルい」という声が聞こえたり、規定違反を“刺した”事件が起きるなど、どこか公平さを保てない部分があった。そこで、2009年から導入された“09規定”では、FRレイアウトでカーボンモノコックを導入、車幅や車体の高さ、そして3.4リッターV8にエンジン規定を統一した。
2010年からはレクサスSC430、ホンダHSV-010、ニッサンGT-Rという3車がそろい、2013年まで「同じルール」での3台による戦いが継続された。その速さは開発が進んだタイヤと相まって、『世界最速のGT』と言われた。空力などについては開発できる余地も多く、さまざまなデバイスが投じられ、見た目にも楽しかった時代だ。
■DTMの歴史と車両規定統一へ向けたステップ
一方、ドイツを中心に開催され、メーカーのプロモーションも相まってF1にも迫るかのような観客動員を集めていたのが、DTMドイツ・ツーリングカー選手権。当初からメルセデスベンツやBMWの参戦で盛り上がりをみせ、1993年からは、隆盛をみせつつあった『クラス2』規定のツーリングカーとは異なる、大幅改造が可能な『クラス1』ルールを採用。アルファロメオが参戦し、メルセデス、そしてオペルとともに盛り上がりをみせた。
そのクラス1規定内で、各メーカーは過激なまでの改造を行い、ABSやトラクションコントロール等の“ハイテクデバイス”も実装。次第にシルエットフォーミュラ化していった。1995〜96年にはITC国際ツーリングカー選手権となったが、高騰するコストもあって、シリーズは消滅する。
2000年には復活を願うファンの思いとともに、メルセデス、オペル、アプトが走らせるアウディTTが参戦してシリーズは復活。消滅した96年までの反省を踏まえコスト制限は厳しく行われ、2004年から導入された車両規定では、ベースを4ドアセダンに統一。前部フレームは大きく改良ができ、さらに前後フェンダーと車両中心位置から下の部分のみが空力開発できる規定でシリーズは進んだ。
しかし、2005年限りでオペルがシリーズから撤退すると、レースはメルセデスとアウディの2メーカーだけで争われた。依然としてファンは多く、過激なフェンダーの空力等見た目も激しかったが、時代の流れとともに関心の層も変貌し、2メーカーのみの争いにシリーズは危機感を抱いた。
そこでDTM側が参戦を期待したのがBMWだった。ただ、マーケティングの観点からBMWとしてはアジアや北米で影響力があるレースに参加したい意向をもっていた。さらに、メルセデスもアウディもコスト削減を急務としつつ、アジアと北米を見据えていた。
これらの要望に応えるべく、DTM側はアジアで最も高いレベルをもち、なおかつ車両規定の面で似通った部分があるスーパーGT、さらに北米ではIMSAに代表団を派遣した。スーパーGTにDTMの代表団が訪れたのは、09規定初年度の最終戦である2009年もてぎ。ここで、DTM側から車両規定統一に向けた提案がGTAに為された。
提案された新規定は、統一したカーボンモノコックを使い、ベース車は2ドアクーペに変更。それまで同様『デザインライン』と呼ばれる車軸中心線から下部、前後フェンダー以外は市販車のボディラインを保つもの。目標は、まず最も大きなものが、両シリーズにおける共通パーツの採用によるコスト削減。それまで、主に“研究開発費”だったスーパーGTの参戦費用を軽減し、その浮いた分の予算をスーパーGTを通じたプロモーションや、ファンサービスに使って欲しいという両シリーズ主催者の願いがあった。
そして、グローバルに使用できる車両規定を策定することで、DTM側としてはBMWやさらにその他のメーカーをDTMに誘い入れること。もちろん、スーパーGTと車両の交流ができれば言うに及ばず。日本側としても、車両規定を統一化することでコストダウンを実現し、かつ日本の3メーカーだけで争われていたGT500に海外メーカーを誘致する可能性もできた。
2009年もてぎでの代表団訪問以降、その年の冬には参戦メーカーやタイヤメーカーを集めての協議が行われるなど、スーパーGTでも話し合いが本格化した。ちなみに蛇足だが、この年はFIA国際自動車連盟の会長選挙があり、ジャン・トッドとアリ・バタネンが争った。最終的に落選となったバタネンを支持したのは日独米の自動車連盟だったと言われており、このスーパーGTとDTM、そしてIMSAの関係はそれを示唆しているものではないか……という噂が出たことがあったが、これは偶然だったのだろう。
ともあれ、この年を境に、日独の両シリーズは規定統一に向け話し合いをはじめ、両シリーズ、メーカーを交えた話し合いは『ステアリング・コミッティ』と呼ばれた。途中からIMSAは参加しなくなったが、2012年から先行してDTMが両者の話し合いのもとに生まれた規定をスタート。BMWも参戦を開始し、3メーカーがそろった。そして、2014年からはGT500クラスも規定を採用した。このときは、エンジン規定が異なるなど違う部分も多かったが、共通パーツや車両規定など、ふたつのシリーズは同じ歩みをスタートさせている。
(2)へ続く
from いよいよ実現『SGT×DTM特別交流戦』。遠くて近い存在だったシリーズのこれまでとこれから(1)
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