11月23〜24日、静岡県小山町の富士スピードウェイで行われた『AUTOBACS 45th Anniversary presents SUPER GT X DTM 特別交流戦』。この併催レースのひとつとして行われた『auto sport Web Sprint Cup』で、2015年からGT300クラスを戦ってきたつちやエンジニアリングのGT300マザーシャシーが、そのラストレースを終えた。
土屋武士率いるつちやエンジニアリングは、2015年からのスーパーGT復帰を目指し、2014年から“3年計画”をスタートさせた。1年目は松井孝允を育て、2年目にスーパーGT参戦。3年目にチャンピオン……と描かれた青写真を成功させたのは、GTアソシエイションが日本のものづくりを育てるために送り出した、GT300マザーシャシーの存在があってこそだった。
かつて父・土屋春雄が作り上げたように、プライベーターでも技術力で勝つレーシングチーム。それがつちやエンジニアリングだ。豊富な資金はなくとも、知恵とアイデアでマシンを改良、緻密なセットアップとクルマに合ったタイヤを作り上げ、2016年には武士と松井のコンビでチャンピオンを得た。その年にいったんシートを下りた武士本人が、「できすぎ」というストーリーが描かれた。
そんなチームの目標は、5年前も今も変わっていない。勝利とともに日本のモータースポーツを支えるプロフェッショナルとして、“職人”を育てることだった。それはメカニックもエンジニアも、もちろんドライバーも。実際、2015年からの5年間で、つちやエンジニアリングから育ったメカニックやエンジニアもいるし、ドライバーでも松井はもちろん、山下健太や坪井翔、そして今季は佐藤公哉が、この86マザーシャシーで育った。
■土屋武士“不在”でのラストレース
しかし、第8戦もてぎで86マザーシャシーの活動が2019年限りになることが、武士自身からサポーターたちに涙を交えて語られ、この『auto sport Web Sprint Cup』がラストレースになることが告げられた。ただ同時に、武士自身がドライバーとして、MaxRacing RC F GT3をドライブすることになった。
この週末、武士はMax Racingのウェアを着て、隣のピットながら「今週はずっとRC Fの方の仕事に集中していて、25号車はほったらかしでした」という状態だった。これは、武士のある決意の表れだった。
「今回、(チームメイトの)GO MAXさんから『一緒に出よう』と言っていただいて、自分が乗る機会ができた。オペレーションも仕事としてちゃんとやって……と考えたときに、このHOPPY 86 MCを、若い子たちにぜんぶ任せようと思ったんです。ベースだけ渡して、『あとは好きにやってみてほしい』と」
もちろん、シリーズ戦ではこんな冒険はできない。しかし今季、『auto sport Web Sprint Cup』が開催されることで、シリーズ戦以外のレースの機会が最後にでき、自分はドライバーとして声がかかった。そこで武士は、86マザーシャシーを投入し、スーパーGTに復帰しようと決めたときの『人を育てる』という当初の目的を思い出した。
「こんな機会をもらえたことは、それもめぐり合わせ。どこかで『そうか!』と気づいたんです。ドライバーやメカニックに『タイヤの内圧も給油量にしても、ぜんぶやってみてくれ』と。今まで“ずっとやっていた人”がいない中で、本番でそういう経験をできることなんてない」
こうして、土屋武士が隣のピットにはいるものの、“不在”で挑んだ2日間のレース。レース1では、タイヤのウォームアップにも苦しみ7位。日曜のレース2では「最初はかなりまだ路面も濡れていたのでウォームアップに苦労するのは分かっていました。最初は苦しく少しポジションを落としましたが、セットアップも良く、タイヤも発動してくれました」と佐藤公哉が語るとおり、上位に食らいつく。
ただ、ピットインではギリギリを攻めた結果、わずか1秒規定よりも早くピットアウトしたため、再度1秒止まる必要に迫られた。結果は8位。しかし佐藤は「来年に向けてドライビングの面でもヒントを見つけられました。その点では、僕としても得るものが多いクルマでしたね。最終的に、ウエットでもドライでもレースをすることができた。良い部分も見つかりました」とポジティブなコメントを残した。
あまりラストレースらしい感傷的なコメントは佐藤からは出てこなかったが、それは5年間を86マザーシャシーとともにした松井も同様だった。「キツかったです(笑)。今年を象徴するようなレースでした」とサバサバとした表情で語った。
「ただ、その原因も分かりましたし、将来の『マザーシャシー2』へ向け、すごくいいデータが取れました。もちろんこれがラストレースなのですが、次のマシンに向けてすぐデータを上げて、復活できるように、僕は首を長くして待っています」
「みんなでセットアップにしろ、ランプランにしろやってきたので、僕たちとしても成長できたレースでしたし、新しいセットアップを試せた部分もありました。そういう部分も含めて、次のクルマのデータにできる面がたくさんありました。今回のレースは『たくさんデータが取れたな』というレースでした」
■ファイナルラップまで“役目”をまっとう
こうしてフィニッシュしたHOPPY 86 MCは、松井がチェッカーでパッシングをし、ピットに戻るまでの間、ドアを開け富士スピードウェイのファンに向け手を振り、“ラストレース”らしいシーンを残した。ただ、これも松井は「いちおうやっておいた方がいいかなと……(笑)」とサバサバと語った。
「正直、表彰台に行っていたら感動はあったかもしれませんが、今回は今年を象徴するような『苦しみ』しか残っていないようなレースでした。正直、僕の中ではシリーズ最終戦のもてぎの方が『終わったな……』という気持ちが大きかったです」という。
「今回はもてぎで苦しかった原因を再確認できたという意味では、テストではありませんが、次に繋がるレースだという意味合いの方が強いです」
一方、その松井とHOPPY 86 MCを、コース上という“特等席”で出迎えたのはMaxRacing RC F GT3のコクピットに乗る武士だった。
「今週はずっとRC Fの方の仕事に集中していて、あのクルマはほったらかしでしたし、“ラストレース”を味わっていなかったので、最後の“あの瞬間”だけ味わうようにしようと思っていました」と武士は振り返った。
「でもラストレースで、最後にちゃんとチェッカーを受けることができたし、最後の最後に悔しさと後悔の念だけを置いて役目を終えるのも、このクルマらしいな、と思いますね(笑)。素晴らしいなと。そういう風に生まれたクルマなんだな、とランデブーしながら感じました」
「もちろん、応援してくれているファンの皆さんには表彰台を見せたかったですが、最後までこのクルマが“人を育てる”役目をまっとうしてくれました」
「ここまで愛されたクルマは、今までなかったと思います。ドライバーやチームという対象ではなく、クルマとして愛された。そのために生まれてきてくれたんだな、と思いました」
ラストレースのファイナルラップまで人を育て続け、「次に繋げるんだ」という悔しい思いをチームに残したHOPPY 86 MC。5年間、ある時は喝采を、ある時はライバルからの痛烈な声を浴び、ある時は横転し、ある時は誰よりも速く駆けた。ある意味時代の境目でとても不幸でもあり、とても幸せだった希有なレーシングカーだ。
しかしラストレースは終えたが、松井の言葉にもあるとおり、このクルマの役目と、つちやエンジニアリングの冒険はまだ終わっていない。2020年、新たなチャプターがスタートするはずだ。
from 苦しみや悔しさを残し、ラストレースで役目を終えたHOPPY 86 MC。「ここまで愛されたクルマは、今までなかった」
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